■教育と洗脳
前回の「教育ははたして必要か?」
という問いへのコメントで
アマゾンでは「教える」を意味する言葉は無い
「学ぶ」を意味する言葉はあると聞きました。
教えるという概念が無い。。。。
これが一番キーな気がします。
教えるといった時点で
こちらは完成品
相手は未完成品
それって果たして本当か?
勝手に学ぶような場をつくること(背中を見せるなど)
で自らのものにしていくこと。
これこそ、学ぶはあるけど教えるはない。
教えたことが唯一無二の真実でないことは真実で
それを破って捨てなさいってとこまで
教えるなら教えるという段階も必要ではあるかもしれない。
いま言葉を覚え、話し始めた2歳の娘
彼女に言葉は教えていない。
少なくとも教えたつもりは全く無い。
彼女が勝手に学んだのだ。
毎日一時間、机に座って
言葉の勉強などしないのに。
もちろん、呼吸の仕方も立ち上がり方も歩き方も
ただ、ただそばにいて見守って
できたらそれを心から喜んで、、、、、。
ここに幼児教育などというものは存在しない。
教えなければ言葉を覚えないかというと
決してそんなことは無いと思う。
狼に育てられたなどの場合はあるが
それも環境の問題で、教育の問題ではない。
環境が人を形作るのであって
教育が人を作るのではないような気がする。
というか
教育が人を作り上げられる事実は受け容れるが
そのことに少しばかりの恐怖を覚える。
その人をその人でなくしていくような
なにか違ったものにしていくような
社会が求めるあるべき人間を作り出す工場のような
ロボットに埋め込まれるチップのような・・・。
親は無くとも子は育つというように
ここまでリアルに教育が”必要であるわけではない”こと
はわかっているが、
その上でいったい教育になにができるのか
ということは問いたいと思う。
環境教育にしても学校教育にしても
社員教育にしても
誰かの作り上げた 理想像
例えば 自分で考え行動できる人間を育てる など
にむけて教育することになる。
その理想自体は教育を受ける側に選択肢が
無い場合がほとんどで
その前提を受け容れざるをえない、
もしくは受け容れないとしたら落伍者という
烙印を押されて社会から締め出されて
しまうことになるのだろう。
果たして社会の求める人を育てること
それが教育の目的なのか。
教育を受ける本人に
どんな人間に教育されたいかという
選択を与えないとしたら
たとえそれがどんなに
素晴らしい人間を育てることに貢献しようとも
洗脳 といったい何が違うのだろうか?
そして
新しい社会や新しいあり方を生み出すには
そういった教育(洗脳)の影響を
全く受けていないものにしか
創りえないんじゃないだろうか。
そんなことも思ったりする。
またコメント よろしく!です。
という問いへのコメントで
アマゾンでは「教える」を意味する言葉は無い
「学ぶ」を意味する言葉はあると聞きました。
教えるという概念が無い。。。。
これが一番キーな気がします。
教えるといった時点で
こちらは完成品
相手は未完成品
それって果たして本当か?
勝手に学ぶような場をつくること(背中を見せるなど)
で自らのものにしていくこと。
これこそ、学ぶはあるけど教えるはない。
教えたことが唯一無二の真実でないことは真実で
それを破って捨てなさいってとこまで
教えるなら教えるという段階も必要ではあるかもしれない。
いま言葉を覚え、話し始めた2歳の娘
彼女に言葉は教えていない。
少なくとも教えたつもりは全く無い。
彼女が勝手に学んだのだ。
毎日一時間、机に座って
言葉の勉強などしないのに。
もちろん、呼吸の仕方も立ち上がり方も歩き方も
ただ、ただそばにいて見守って
できたらそれを心から喜んで、、、、、。
ここに幼児教育などというものは存在しない。
教えなければ言葉を覚えないかというと
決してそんなことは無いと思う。
狼に育てられたなどの場合はあるが
それも環境の問題で、教育の問題ではない。
環境が人を形作るのであって
教育が人を作るのではないような気がする。
というか
教育が人を作り上げられる事実は受け容れるが
そのことに少しばかりの恐怖を覚える。
その人をその人でなくしていくような
なにか違ったものにしていくような
社会が求めるあるべき人間を作り出す工場のような
ロボットに埋め込まれるチップのような・・・。
親は無くとも子は育つというように
ここまでリアルに教育が”必要であるわけではない”こと
はわかっているが、
その上でいったい教育になにができるのか
ということは問いたいと思う。
環境教育にしても学校教育にしても
社員教育にしても
誰かの作り上げた 理想像
例えば 自分で考え行動できる人間を育てる など
にむけて教育することになる。
その理想自体は教育を受ける側に選択肢が
無い場合がほとんどで
その前提を受け容れざるをえない、
もしくは受け容れないとしたら落伍者という
烙印を押されて社会から締め出されて
しまうことになるのだろう。
果たして社会の求める人を育てること
それが教育の目的なのか。
教育を受ける本人に
どんな人間に教育されたいかという
選択を与えないとしたら
たとえそれがどんなに
素晴らしい人間を育てることに貢献しようとも
洗脳 といったい何が違うのだろうか?
そして
新しい社会や新しいあり方を生み出すには
そういった教育(洗脳)の影響を
全く受けていないものにしか
創りえないんじゃないだろうか。
そんなことも思ったりする。
またコメント よろしく!です。


